自動化こぼれ話(189)早くなければ機械ではない

山梨大学名誉教授 牧野 洋

 1960年代までの自動機、自動化装置の考え方というのは、人手で作っているものを機械化すればどの程度に早く作れるかということであったが、そこには人手作業を「そのままの形で」という意識はなかった。むしろ、やり方を変えて、機械に適したやり方で同じものを作ることによって、生産性を高め、コストを下げようということであった。こうして専用の高速機械が作られ、大量にものを生産するようになった。その代表的な機械としては煙草の紙巻機械やビールの瓶詰機械がある。

 この考え方に混乱が起きてきたのはロボットが誕生してからのことである。商品の多様化、モデルチェンジの頻繁化に応じて、プログラマブルな機械としての産業用ロボットが誕生し、それとともに理想的な?フレキシビリティを持つ人間に学べということで、人間の持つ知的な能力とともに身体の構造的な能力が研究された。

 そうして、この、神の造り賜うた人間という存在を最高のものと信じ、機械をいくらかでも人間に近づけることが自動化屋、ロボット屋のすることだとする考え方が出来上がった。

 私はそうした考えを持つ人がいることを否定しない。実際にそうした考えによって幾つかのメカニズムや制御要素が開発されてきたことも否定しない。しかし、自動化の目的である「生産性を上げてコストを下げる」という目的はどこへ行ってしまったのか。人間並みのスピードでのろのろと仕事をし、走ることよりも人とぶつからないことの方を重んじるような機械では、スピードは上がらないし、したがって設備もペイしないことであろう。