新しい事務局の出発に当たって

事務局長
須田 大春

 数え年35歳になった自動化推進協会は、第三の人生に入った。前身としての自動組立懇話会が創立されたのが1972年7月、活動分野を広げるべく自動化推進協会と改称したのが1978年7月、そして特定非営利活動法人になったのが2005年1月である。

 それぞれの時期にふさわしい事務局を構成してきた。最初は、通信教育の工学研究社のお世話になって千代田区神田神保町に6年間、ついで、初代会長牧野先生の開発したスカラロボットを世にひろめたナイス株式会社と同居したのをきっかけに新宿区信濃町に27年間、そしてこのたび、中野区の中野サンプラーザ9階のSOHOオフィスに移転した。東京を中央線に沿って西へ西へと進んでいるが、これは都市の生態学としては自然な現象らしい。

 中野サンプラーザは、旧労働省の外郭団体雇用促進事業団が労働保険の事業として建設した20階建てのビルで、ポピュラー音楽のホールとしては有名である。昨日もピアノコンサートの観客にしては異様に中年女性ばかりであふれかえっていたが、韓流ドラマの主題歌の演奏だったようだ。アスレチック・ジム、テニスコート、研修室、ホテルなどのそろったビルで、行政改革の「国から地方へ」の風にのって、最近中野区に移管されたところである。事務所は「9尺2間の棟割長屋」で、2人座ったら満員という狭い部屋であるが、共通の秘書室・ロビー・応接室・会議室が使える上に、同じ建物 で講座も会食もできるのがメリットである。これまでの肉屋(最近は蕎麦屋になった)の4階とは全く印象が違って、いかにも社会的に認知された法人としての出発にふさわしい。

 ところで、移転と同時に筆者が事務局長を引き受けることになったので、僭越ながら、自己紹介をさせていただきたい。1962年3月に東大工学部精密工学科卒業、4月日産自動車入社、設計部シャシー設計課というところまでは「自動車屋」であるが、日産に17年いて、設計・工場・本社・工機工場と転々とするうちに「自動化屋」に化け、1979年1月に日産をスピンアウトし、信濃町のナイス株式会社に入社し、「世界で最初のマイコン制御によるディジタルサーボ」をスカラロボットに搭載した。その後、ユニーシステム(いまはユーエスシーという)に移り、仕事の中味はロボット屋から電子屋・ソフト屋と変わり、1996年にはサスティナブル・デベロップメントを標榜するSDLを設立したが、「自動化屋」の看板は下ろしていない。

 協会では、新井会長のもとで事業委員長として10年間、総会屋をやったが、監事、財務委員長をへて、27年前は同居人として製本を手伝わされた事務局に、今度は責任者として入ることになった。 会員サービスの向上と事務局制御のディジタル化を目標に、法人事務局としての基礎固めをやっていきたいので、ご支援をお願いしたい。